或る和泉古書店の一日

                                                 Written by史燕


「和泉古書店」店主、碇シンジの朝は早い。
店の開店は10時前後と決まっているが、朝の支度もろもろが彼の双肩にかかっているからである。

「和泉古書店」店員、夕霧レイの朝も早い。
開店前に出勤して注文の整理、買い取りの通知、買取額の見積書の発送をしなければならないためである。

「シンジさん、おはよう」
「おはよう、今日もよろしくね」

いつも通りの朝の挨拶。
いろいろと理由を述べたが、二人ともこの挨拶を少しでも早くしたいがために、というのはあながち間違いではないだろう。

「もう4回生だけど、毎日来てもらってて大丈夫?」
「就活してないもの」

なぜ、と訊くほどシンジも抜けてはいない。
このままこの古書店を二人でやっていく、それだけで十分だからだ。

今日も今日とて店を開け、ネット受注分の本の箱詰め作業を行う。
注文書の住所などの確認はレイが、実際の商品の検品と梱包はシンジがと、適性にあわせて役割分担をしている。

「ソウイチロウさん、これを一人でやっていたのね」
「僕が来るまで、ずっと一人だったみたいだよ」

今は亡き先代店主に二人して敬意を新たにすることは、枚挙にいとまが無い。

「お昼ご飯、どうする?」

正午を迎えようかというタイミングで、シンジはレイに訊ねた。

「シンジさん、作ってくれる?」
「はいはい、お嬢様の仰せのままに」
「今日はなに?」
「フレンチトーストなんて如何でしょうか?」
「すてき」

質問はしても、既定路線。
昼食はシンジが用意する、それも「和泉古書店」の日課となりつつあった。

「お休みの日もきみが来るから、すっかり二人分用意するのが癖になっちゃった」
「ダメ、だった?」
「ううん、いくらでも用意するよ」

シンジが2階へと向かい、昼食の準備をする。
その間、店頭ではレイがお客さんの対応を任せられる。と言っても、そこまでお客さんが押しかけるような店ではないのだけれど。

「出来たよ」

15分足らずで、焼き上がったフレンチトーストとコーヒーを持ってシンジが降りてくる。
軒先に「所用に付き外出中」という札を下げて、二人揃って昼食を取る。
これ自体はソウイチロウの時代からあったもので、常連さんは慣れきっている。
ちなみに他にも「仕入れ中」「陳列中」果ては「お昼寝中」なる札まであったりして、「僕が来るまでは全部使ってたみたいだよ」と、シンジはレイに語って聞かせていた。

「ずいぶん早かったわね」
「昨日のうちに、卵液に漬け込んでおいたからね」
「手際がいいわね」
「あまり待たせたくなかったから」
「お客さんを?」

そこまで淀みなく会話を続けていたにもかかわらず、レイのひと言でキョトンとした表情をして、シンジはまじまじと目の前の人物を見つめた。

「ちがうよ」

そして、否定の言葉を発する。

「では、誰を?」

心当たりがないといった様子のレイにシンジは「本当にわからない?」と訊ねた。

「わからないわ」

そう言ったレイの返答を聞き、眉間を抑えながら「参ったなあ」という表情を隠そうともせず、シンジは正答を口にした。
「きみを、だよ。きみを待たせたくなかったから」
「あ、えっと、その」

頬を赤く染めるレイとそれを眺めるシンジ。
沈黙が降りる食卓で、コーヒーを淹れるシンジの手だけが止まることはなかった。

結局互いに無言のまま昼食を終え、店先へと戻った。
別に何か悪いことがあったわけではない、むしろその逆なのだが、なんとなく声を掛けるのが憚られたからだ。
レイの頬はまだ赤いままだ。

平日の昼下がり、軒先で野良猫があくびをするのを眺めていられる程度には平穏な時間だ。

「あの猫、また来てるね」
「かわいらしいわね」

猫の様子を、椅子に腰掛けて観察するのも二人の日課だ。
日課のおかげで気恥ずかしさが氷解するのだから、今度は煮干しのひとつでもあげようかしら、とレイは思った。

あくびをしていた猫が、不意にその場から飛び退いた。
来客だ。

「こんにちは」

おずおずとのぞき込むようにして、中学生くらいの男女がやってきた。
気がつけば、学校が終わる時間帯にさしかかっていたらしい。

「「いらっしゃいませ」」

待ちわびたご新規さん、それも珍しいことに自分たちよりも若い世代である。
二人とも跳ね上がるようにして立ち上がった。

「何をお探しですか」

シンジがすかさず目当ての品を訊ねた。
どこに何があるか、乱雑に積み上げられている店内に共通する一定の規則性を、シンジは身体にたたき込んでいた。
書名やジャンルを言われれば、5分以内に有無の返答は出来る。

「あの、JAZZのレコードを探しているんです」
「お世話になっている人に、プレゼントしたくて」

わざわざレコードをなんて今時珍しい話だが、プレゼントということならば納得であった。

「レコードですか。少々お待ちください。たしかこの棚に……」

シンジは棚の奥を必死に探し始めた。
知る人ぞ知る話だが、ソウイチロウの頃から買い取ったレコードがこの店でも相当なコレクションがある。
もちろん売り物なのだが、まったく売れないので、半ば趣味の収集品の域に近かった。

「粗茶ですが、こちらをどうぞ」

「和泉古書店」では変わった風習がある。
古書店にもかかわらず、机の上にお菓子とお茶を平然と用意し、店員や来客に振る舞うというものである。
先代の頃から続くこの風習は代替わりしても続き、毎日の楽しみとなっていた。

「あっ、すみません」
「ありがとうございます」
「いえいえ、久しぶりに店頭にお客様がやってきてくれたから、あの人張り切ってるんです」

そういうレイは、仕方がないわね、といった口調だったけれど、シンジを見つめる視線は愛おしさを隠そうとしていなかった。

「あった、ありましたよ」

奥から叫んだシンジが抱えてきたのは、「Fly Me To The Moon」と書かれた一枚のレコード。

「これが一番メジャーでいいかと思うのですが」
「ありがとうございます」

どうやらお客様のお気に召したようだ。

「プレゼント用の包装は私がしますから、あなたも一緒にお召しになって」
「そうさせてもらうよ」

「今日のお菓子はなに?」
「マドレーヌ、買ってきたの」

これもこの店での取り決め。
ティータイムのお菓子だけは、彼女が用意する。
どこのお店を選んでくるのか、そのときの彼女の気分次第だ。

若いお客様二人の前に腰を下ろし、紅茶とお菓子に舌鼓を打つ。

「おいしいわ」
「彼女のチョイス、なかなかいいでしょう」
「レコードは、他にはどんなものが?」
「昭和歌謡に洋楽、クラッシック、一通りはありますよ」
「すごいですね」
「半ば道楽みたいなものですけれど、そう言っていただけてうれしいです」

シンジは機嫌良く質問に答える。
レコードの良さは、ソウイチロウと共に過ごしたあの頃を思い起こさせる楽しい思い出。
こっそり二人で、新しく仕入れた逸品を試しに流してみたものだった。

「できあがりましたよ」

皿の上のマドレーヌがなくなる頃、レイの声が聞こえた。

「何から何までありがとうございました」
「ごちそうさま」
「いえ、こちらこそ話し相手になっていただいて」
「またのお越しをお待ちしてます」
「はい、また来ます」

若いお客様二人が出て行く頃には、ちょうど斜陽が庇から差し込む時間になっていた。

「もうしばらく開けておくけど、夕飯は大丈夫?」
「一緒に食べましょうよ」
「それじゃあ、今日はあの定食屋さんかな」
「それもいいわね」

こうして、「和泉古書店」の一日は、いつもと変わらず、同じような穏やかな時間の流れの中で、過ぎ去っていくのだった。




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