夕霧立ちて

                                                 Written by史燕


いつの物かわからないような古い本の山。
「和泉古書店」の一角にはそんなスペースがある。
もちろん整理されて目録はあるのだけど、それを僕やレイがどうこう出来るのかと言えば、そんなはずもなく。
時たま店頭に顔を出すソウイチロウさんと一緒の頃からの常連さんとか、噂を聞きつけた骨董マニアとか、そんな人たちが眺めていくだけだ。
ほとんどの場合、買い手は付かないのだけれど、きちんと虫干しだけはしてあげないといけないというのがやや億劫だ。
その虫干しを、今は片付けているところ。
僕が運んで、レイが目録通りに並べる。
軒下に広げたブルーシートが6枚ぎっしり埋まるほどの量だけど、レイに押しつけるわけにはいかない。
彼女も大学を卒業して2年。仕事もたくさん任せている。だからこそ、役割分担はしっかりと。

「これで最後ね」
「うん、今年もひと仕事だったよ」
「処分するわけにはいかないもの」
「意外と貴重な物もあるらしいから、『科研費が下りたら順番に買うから』なんて言っているお客さんもいるしね」
「ああ、あの猫背で、焦ると『ええと』って言いながら、身振りが大きくなる」
「そうそう、よくどちらを買おうか迷って額に手の甲をコンコンって当ててるその人」

そんなことを言いながら、いつものように「所用に付き外出中」と札を掛け、店の奥のテーブルにつく。
定位置にあった邪魔者がいなくなったからか、野良猫がくしくしと前足で髭を撫でていた。

「今日は、スコーンを焼いてみたの」

毎日ここに通いながらなのに、時折お菓子を作って持ち込んでくれるレイを素直に尊敬する。

「いつもありがとう」
「あなたが喜んでくれる。その言葉だけでうれしいわ」

彼女の作ったお菓子に対して、コーヒーは必ず僕が淹れる。
決して褒められた腕ではないのだけど、それでも「おいしい」と言ってくれる彼女がいるから。

「やっぱり、あたたかいわ」
「淹れたてだもの」
「そう言う意味じゃなくて、よ」

わかっていて、あえて的を外したことを言ってみせる。
すかさず訂正が入るが、二人とも表情はにこやかなまま。

こんな毎日が愛しくて。
こんな毎日がとても惜しくて。

彼女が卒業したらと決めていたことをずるずると2年も引き延ばしてしまっている。
仕事がひと段落付く今日、その未練にケリをつけようと思っていた。

「今日は、早めにお店を閉めようと思うんだ」

コーヒーにひとくち口をつけ、縮こまりそうになる自分を落ち着かせて言った。

「何か用事があったかしら」
「いいや。だけど、きみは空いてる?」

彼女に予定がないのは昨日確認済み。
それで断られたら、そういうことだ。
一応付き合っているのだから、たぶん断られることはない。
だけど、事が事だけに断ってもらえばまた先延ばしできる、と考えてしまう弱い自分もいた。

「お仕事のつもりだったし、大丈夫よ」
「すこし時間がかかるかもしれないけれど、一緒に行きたい場所があるんだ」
「構わないわ」

幸か不幸か、今日の予定は定まった。
あとは、僕のなけなしの勇気を振り絞り、鎌首をもたげる不安を押し殺すだけだ。

最寄り駅から電車を乗り継いで3駅ほど。
つるべ落としの秋の陽は、もうオレンジ色に姿を変えていた。
少し歩いて近くの川へと向かう。
川幅が優に列車20台分以上の長さはある川だ。
岸辺に沿って生える葦が、あやなす波にその葉を揺らしていた。
その周りの並木道をゆっくりと歩くだけで、結構な時間を潰すことが出来る。

「すっかり寒くなったわね」

そう口にした彼女の吐息は、晩秋ということもあって白くなりつつあった。

「もうすっかり紅葉も落ちちゃったくらいだからね」

そう言いながら、片手を彼女に向けて差し出す。

「どうしたの?」

意図がわからず、その手を取るべきか逡巡する彼女の手を掴む。
いつになく強引だったからか、その手からは困惑が読み取れた。
だけど僕はそれを受けても躊躇するつもりはない。

「こうしたら、暖かいから」

それだけ言って、その手をそのまま上着のポケットへ。
服の中に放り込まれた彼女の右手は、所在なさげにしていた後に、僕の左手と、指の一つ一つを確かめるようにして絡み合った。
ひとつになったその手が離れないように、僕も改めて、しかし強すぎないよう気をつけながら、その手に力を込めた。

「たしかに暖かいわ」
「・・・・・・片手だけだけどね」

そんなことを言いながら、歩幅は彼女にあわせてゆっくりと。
行き先は遠くない、いやもっと遠くすればよかったか。
つないだこの手をこのままに、この温かさをいつまでも、そう思ってしまう自分がいた。
そんな内心を極力表に出さず、「あ、鴨が飛んでいるね」「山もすっかり寂しくなったね」なんて景色を眺めながら話をする。
しばらく歩くと、体感としては想定よりずっと速く、目的の川縁へとたどり着く。
時刻は黄昏時。
彼女が、そして僕が何者なのか、何者になるのか、はっきりさせるにはちょうどいい頃合いだ。

「どこまで向かうの?」
「もう、着くよ」

川に掛けられた石橋にさしかかり、欄干に半身を預けながら彼女に伝える。

「後ろ、振り向いてよ」
「どうかしたの?」

怪訝そうに彼女が振り向いた瞬間、息をのんだのが伝わってきた。
川面より立ち上る白い霧。
彼女の名字と同じ、夕霧だ。
深緑の葦の葉の間を縫うようにして、少しずつ少しずつ、川岸までを白く染め抜いていく。
静かに広がる白い霧に朱色の陽光がキラキラと反射している。
茜色に染まる空と白く広がる夕霧。
この光景を、景色を、彼女と共に見たかった。
彼女のために、見せたかった。

「夕霧レイさん」
「はい」

それまでと打って変わって畏まった口調で彼女を呼んだ。
彼女も雰囲気が変わったことを察したのか、僕の方を向いて短く返事をする。

「今まで、一緒に仕事をして、お付き合いをして、とても楽しかった」
「私も、今もとても幸せよ」

彼女の瞳が僕を射貫く。
それだけで、このままの関係を維持していればいいのじゃないかと、この期に及んで鈍りそうになる。
そんな情けない自分を叱咤して、言うべきことを、この場所で言うと決めた言葉を。

「夕霧レイさん、僕と一緒に、これからもずっと一緒にいてほしい」
「きみがいないと、僕は幸せになれないんだ。きみと一緒じゃないと僕は幸せになれないんだ」
「だから、僕と一緒に幸せになってください」
「――結婚してください」

とても格好が悪い自覚はあるけど、これが僕の本心。
飾り気のない素直な気持ち。
だから、そのままの言葉で贈る、彼女へのプロポーズ。

「えっと、その」

一気呵成にまくし立てたせいか、彼女は困惑を隠せずにいる。
その様子から、「やっぱりダメだったかな」と心の中で弱い自分が顔を出しそうになるが、仮に振られるとしてもせめて笑顔で。

「シンジさん、気がついてる? 私は、今もシンジさんの手を掴んだままなの」
「あっ、それは、その」

彼女からの思わぬ指摘に、しどろもどろになる。
ポケットに手を突っ込んだ侭なんて、いくら何でもあんまりだろう。
やらかしたなあ、と思えど後の祭り。彼女の返答が終わったら、平謝りに謝ろう。
客商売で、謝罪だけは一人前になってしまったから。

「違うの、うれしいの」

彼女の口から出たのは、意外な言葉だった。

「私から、シンジさんの手を放したりしないわ。そして、シンジさんからも放されることはなかった」

このタイミングで「こんなときまでね」とは、さすがに口を挟むのは辞めた。

「だから、『ずっと一緒にいたい』というのが、言葉だけじゃないんだ、この手を放さなくていいんだって、行動でもわかって、とてもとてもうれしかった」
「答えはとっくに決まっていたの。シンジさん、喜んであなたと一緒に幸せになるわ」

彼女の答えに安堵しながら、格好が付かないけれど、それもまた彼女が喜んでくれたのなら、と思う。
その後、懐から指輪を取り出して、彼女の薬指へ。
立ち上る夕霧と同じくらい真っ白なその手へ、銀色のリングがピタリとはまった。
彼女には秘密だけど、リングの裏には「Rei × Shinji」の刻印。
彼女への誓いは、この景色と共に。
もう片方の手は、上着の中でずっとひとつにつながったままだった。




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