とある常連客の来店

                                                 Written by史燕


やあ、シンジ君ご無沙汰しているね。
ああ、顔を出さなかったのはなにも特別なことはないよ。
表稼業特有の、春先のせわしなさってやつで、ちょいと仕事が立て込んでいたんでね。
そいつが片付き、晴れて自由の身になったからこそ、こうして店先にやってきたってわけさ。

君に初めて会ったのも、このくらいの時期だったか。
数年前、今日みたいに久しぶりに「和泉古書店」を訪れててみたときには、驚いたよ。
あのソウイチロウさんが、店員を雇うなんて思ってもみなかったからね。
もう歳で身体が効かなくなっていたことはわかっていたけれど、まさか見ず知らずの子が店番をしているなんて思うわけ無いじゃないか。

あの頃は、ほんの置き場ひとつなかなかわからずに
「ソウイチロウさん、あの本どこに置きましたっけ?」
「シンジ君、右から2番目の一番下ですよ」
「僕もそう思ってたんですけど、ありませんよ?」
「ええっと、じゃあもしかしてこっちに・・・・・・」
「ソウイチロウさん、今脇に置いた本は?」
「へっ? ああ、これだこれだ」
「あの、せめて出した本は元の場所に戻してくださいよ」
「ごめんね、すっかり忘れてたよ」
なんてやり合ってたねえ。
え、恥ずかしい? いいじゃないか、誰だって初めてはあるもんさ。
レイの前ではやめてくれ? あの子こそ一番その辺を知っている筈じゃあないか。ああ、だからこそか。なるほどねえ。
いやはや、あの頃はまだくちばしの黄色いひよっこだったのに、今はもう立派な店主様だもんね。ましてや結婚までしたんだから、一家の大黒柱としてしっかりした姿を見せたいのか。
でもね、たぶんもう手遅れだと思うよ。
え、何でだって?
いやあ、いつ言い出そうかと迷っていたのだけどね。後ろ後ろ、君の奥さんがさっきからお茶を持って待っててくれてるんだ。いやあ、済まない。本当に済まないと思っているんだ、思っては。

うん、おじさんも、若い夫婦をいじるのは悪いという自覚はあるんだ。
ましてや自分の子供より若い子たちだ、成人しているとはいえ反応が素直でかわいくて。
ソウイチロウさんには悪いが、今こうして仲睦まじく過ごしている二人を眺めるのが愉しくて仕方が無いんだ。

「それで、今日はどんなご用件ですか」

シンジ君の声にちょっとトゲがある。いや、だから悪かったって。

「もう、いいです。そこまで本気で嫌ってわけじゃありませんから」

その場合は、シンジ君よりレイちゃんのほうが、手が付けられなくなるもんね。
いつぞやは大変だった。
出禁で済めばかわいい方だもの。あの紅い瞳で射竦めるような冷たい凍えるような視線を浴びせ続けられるのは御免被ります。一度で十分だ。

「レイを怒らせたのは、発注書を勘違いしてたのが原因だったでしょ。1週間後の入荷なのに、『もう届いてるはずだ』なんて言って譲らないから」

いや、うん、そうだったね。
ああ、うん、ほんとごめんって。
どうしても論文のために必要だったから焦っちゃったんだ。だから赦して、お願い。

「そうですね。じゃあ、今日こんな本を入荷したんですが」

うん、わかった。買う、買うよ、買わせていただきますよ。ニコニコ現金一括払いで。
それで、いくらなのさ?

「1冊が1万5千円になります」

うぐっ、結構高いのね。っていうか1冊!?

「はい、上中下巻3冊になります」

あーそうですか。はい。ちなみにセット割は?

「ご用意しておりません」

ですよねー。知ってた。うん、おじさん知ってたから。
合計4万5千円。持ってけちくしょう。

「お買い上げ、ありがとうございます」

ほんとさー、これで完全におじさんの好みにぴったりばっちしの稀覯本を用意してくるんだから恐ろしくなったよね。

「僕も大変でしたよ、この本を探すの」

でしょうね、レオン・パジェスの『切支丹宗門史』。滅多に見つからないもん。

「お喜びいただけて何よりです」

うん、いいよいいよ。はあ、もうひよっこじゃなくて鳳凰だよ、まったく。

「みなさんに鍛えていただきましたからね」

とんでもない化け物に育っちまったけどな。
・・・・・・そういえばソウイチロウさん、本以外にも茶碗や絵の目利きもたしかだったっけ。そりゃあ、人を見る目もたしかに決まってるよね。

「そこまで手放しに褒められるなんて、悪いものでもたべましたか?」

そんな怪訝そうな目で見ないでよ。
違うからね。純粋な感想だから。

「あなた、そのくらいにしたら」
「まあ、レイがそう言うならこのくらいにしておこう」

ありがとうレイちゃん。
助かった、地獄に仏。砂漠にオアシス。

「でも、この人で遊ぶのは看過できませんからね」

あっ、はい。わかりまして候。奥様に逆らおうって魂胆じゃあないんです。
ええ、ええ、ええ。

「わかってくださったのならいいの」

へいへい、これ以上お邪魔しませんって。
ずいぶんとまあ長居しました。ついつい居心地がよくってね。

「別に、まだ居てくださっていいんですよ」
「ええ、もう発送作業も終わりましたし」

うんうん、おじさん邪険にされてないみたいでちょっと安心したよ。
でもね、これ以上熱々の新婚家庭にお邪魔してるとね、こっちの目がまぶしくてやられちまいそうなんだわさ。

「そんな、またそんなこと言って」
「あらあら、どうしましょう」

それじゃ、そういうわけで今日はこれにして失礼。
ちゃんと本も買って帰るんだから赦しておくんなさいまし。

「ありがとうございました」
「またいつでもいらしてくださいね」

もちろんですとも。
次は、出産祝いを包んでくるようにするさ。

「えっ、ちょっと。それってどういう」
「どうしてわかったんですか」

知っての通りおじさんの本業お医者さんなの。
専門は耳鼻科だけど、レイちゃんの様子見てればわかるって。

「僕、聞いてないんですけど」
「言ってないもの」

とりあえずまあ、そういうことで。
お二人ともお仲が宜しいことで。
おめでとうございます。
これにて失礼、ごめんください。




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