一歩
Written by史燕
――気持ち悪い――
少女はそういって、彼女の首を絞める少年を拒絶した。
少女は拒絶することで、少年は拒絶されることで、他者の存在を、そして紛う事なき自己の存在を確認していた。
紅い海の浜辺で、二人は拒絶しあい、傷つきながらも、他者と共に生きていく道を選択したのだ。
遥か遠く、紅い海の上に彼らを見守る二つの人影があった。
「もう大丈夫なようだね」
「……そうね」
銀髪の少年が口を開くと、碧い髪の少女が、淡泊に応えた。
まるで、これで自分の仕事は終わったといわんばかりに……。
「……君は、行かなくていいのかい?」
「……何故?私の役目は終わったわ」
「……サードインパクトによって世界は終焉を迎え、碇君の願いによって新しい世界が誕生したわ」
「そう、そしてシンジ君と惣流さんが、お互いに傷つけ合いながら、それでも他者を受け入れることを認めた」
「まだシンジ君たちだけしか還ってきていないけれども、他の人々もA.T.フィールドを再構成してL.C.Lの海から還ってくるだろう」
「……サードインパクトを担い、碇君の望む世界を生み出すのがリリスである私の役目、そしてその役目は世界が再生した今終了したわ」
「そうだね……。それで、役目を終えた君は、シンジ君のもとへ行かなくていいのかい?」
「……だから何故?他者という意味では碇君にはあの人がいるわ…」
(……そう、あの人がいる。だから私は用済みなの……)
そう思った瞬間、彼女の中を一抹の感情――淋しさが覆った。
(…何、この感じ?…私、知らないわ)
この感情は彼女自身が予期せぬものであったようだ。
「……それに、碇君は私が人間じゃないことを知っているわ」
(――きっと、受け入れてくれるはずないもの――)
(この子は、自分の感情もまだ理解していないようだね)
「……怖いんだね」
「!!」
「人の中で生きていくことが。なにより、シンジ君に拒絶されることが」
少女の紅い瞳が、動揺に揺れているのがわかった。
「…そう、かも、しれない」
彼女はうつむき、言葉を失った。
その瞳には、まるで何も映っていないようだ。
「もし、君が還らなければ、シンジ君はきっと悲しむだろうね」
「………」
それはそうだろうと、少女も思った。
(碇君はとても優しいヒトだから)
「でも、その傷を癒す存在がきっと現れるだろうね。それが、惣流さんか、他の誰かになるかはわからないけれど……」
「………」
「そして、結婚して子供を作って、幸せな家庭を築くことになるかもしれないね」
彼女は、心なしか、胸の奥が苦しくなったように思えた。
「それでも何も思わないかい?」
「……何故?それが碇君の幸せでしょう?」
「碇君の隣には、あの人がふさわしいもの」
(あの人は私と違って、明るくて、頭もよくて、自分をしっかり持っていて、美人で…私と違って、碇君にふさわしいと思うもの)
彼女は自分の心に、そっと蓋を閉じた。
「君がそう思うのなら、そうかもしれないね」
彼の語調は、それまでと異なり、やや鋭かった。
まるで、「君は何もわかっていないんだね」といいたげなように、少女には感じられた。
「でも、そうじゃないかもしれないということを、君は考えてみたかい?」
「……えっ?」
「惣流さんとシンジ君のことだから、途中でうまくかみ合わなくなる可能性の方が高いね」
「どちらも自分に素直じゃないことは、君も知っているだろう?」
「…ええ」
「実際に彼らの共同生活は、お互いに負担を強いるだけのものだったようだしね」
二人の日常生活を鑑みると、少年の言うことも間違っていないように思えた。
「そして、惣流さんと別れてひとりになるシンジ君」
「孤独と戦いながら、一生懸命生きようとする」
「しかしなかなかうまくいかない人生」
「彼はとても優しいヒトだけど、不器用だからね」
「騙され、傷つき、ボロボロになっていくシンジ君……」
「そして世を儚み、自己嫌悪に陥り、生きていく意味を喪いとうとう――――」
「やめてっ」
「……お願い、これ以上は、やめて」
彼女にとって、そんな未来は、考えたくもなかった。
「……でも、彼のことならあり得ないことじゃないだろう?」
「人一倍優しくて、ガラスのように繊細な心を持つ彼のことは、君が一番よく知っているんじゃないかい」
「それは……」
「…ところで、君はどうして役目を終えた僕たちは消えていく必要があると思うんだい?」
「???」
「そこに何ら蓋然性はないわけだよ」
「確かに僕たちの仕事は終わった」
「でも、それで消えていかなければならない理由はないよ」
「僕たちは一度肉体を喪ったけども、L.C.Lをもとに再構成することができる」
「力の大半は無くなったけども、生きていけないほどじゃないさ」
「少なくとも、リリンとしてならね」
「むしろ、僕たちはこれから運命の輪から逃れて自由に生きる権利を得たんだ」
「つまり、君も僕も行こうとさえ思えば彼らと共に歩んでいくことができるんだ」
「拒絶されることが怖いのは僕もそうだし、みんな同じさ」
「シンジ君たちはそれでも他者と生きていこうと決めたんだ」
「僕たちもそうやって、生きていくことができるさ」
「僕はアダムでありながら自由を司る天使タブリスでもあるんだ」
「タブリスとして告げよう、今の君には果てしない自由が広がっているんだ」
「………」
「…シンジ君に、もう一度会いたくはないかい?」
「………」
「『求めよ、されば与えられん』君が望むなら、シンジ君のもとに還ることができるよ」
「さあ、どうするんだい?」
(……還りたい、碇君のもとへ。立ちたい、碇君の隣に。でも……)
「……求めても、いいの?」
「いいとも」
「……碇君と一緒に、いてもいいの?」
「もちろんさ」
「……還りたい、一緒に生きたい、碇君と」
「でも、君はつらい思いをするかもしれないよ」
(こういうのは、水を差す言葉かもしれないけど、もし彼女が世間から疎まれること、あるいは、シンジ君に選ばれない可能性を考えると、やっぱり、ね)
「……いいの、それでも」
「どうしてだい?」
「……もし、つらいことが待ち受けているとしても、『還りたい』と思う気持ちは本当だから………」
(綾波レイ、君とシンジ君はよく似ていると思うよ。『お似合い』ってことさ)
「…それじゃあ行こうか。シンジ君の、僕たちの未来に向かって」
こうして彼女は、未来へ向けて第一歩を踏み出した。
彼女には、自由の翼と希望という大いなる道しるべがある。
彼女がどのような道を歩んでいくのか、それを決めるのは、綾波レイ、彼女自身である。
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