連作SS:ミルフィーユD

                     あの碧い空に向けて

                                             Written by史燕


「それじゃあ、私たちはこれで」
「疎開先でも、お元気で」
「マスターも、お体に気を付けて」
「次にお会いする時も、とっておきの茶葉を用意しておきますよ」

  ――かならずまたお会いしましょう――そう言って別れるのも、もう何軒目でしょうか。
 この店の近所には、もうだれも住んでいません。
 こちら側にまで被害はありませんでしたが、大きな爆発があったところに、あたらしい湖が出来ていました。
NERVからも広報部長が直々に、「危険なので、疎開してください」と勧めるほどです。
 ただし、あの爆発については、「使徒戦の影響で」との一点張りです。
……綾波さんは大丈夫なのでしょうか……

 今日はこれから買い出しです。思えば長い付き合いのこの街、いまさら離れる気も起きません。
ふと、見れば「噂をすれば影が差す」というものでしょうか、見覚えのある水色の髪がこちらに近づいてきます。

「綾波さん、ご無沙汰ですね」
「………」

 おや、声が届かなかったのでしょうか。こちらが会釈しても反応がないとは。
もう一度声をかけてみましょうか。

「綾波さん、お元気ですか?」
「…!!…」

 今度は声が届いたようです。ところが、綾波さんの反応は、あまりにも異質で、私の予想に反するものでした。

「アナタダレ?」
「誰って、綾波さん、マスターですよ。ほら、少し前までよく来てくださっていた…」
「……ごめんなさい、わからないの」
「えっ、覚えてらっしゃらないのですね」
「……いえ、知らないの」
「――タブン私ハ三人目ダカラ――」

 「三人目」というのはどういう意味なのでしょう。何より「知らない」というのは……。
私が思考を停止した状態のまま二の句を継げずにいると、綾波さんはさも、私に興味のないようなそぶりで、踵を返して行ってしまわれました。
――最期にこう言い添えて

「…あなたもこの街から離れた方がいいわ。そうすれば、もしかしたら助かるかもしれないもの…」
「…もうすぐ約束の時が訪れるわ…」

 彼女の背中が私にどのような言葉よりもはっきりと語っていました。「もう関わるな」と。
そう、それはつまりとても明確な――拒絶。

………それからも何日も立たないうちでした。
私が事の真相に触れた日、つまり綾波さんの言う「約束の時」が訪れたのは………


                   ――――約束の時――――


 その時は、突如私に襲いかかってきました。
 まるで、激しい本流にさらされる一枚の笹の葉のように、私はその大きな流れに抗うこともできずに、飲み込まれていきました。
 
 私は、その日、いつもの通りに店内にいました。
避難勧告があったかどうかも覚えていません。
たとえあったとしても、満足に機能するシェルターなど数えるほどもなかったのですが…。

 その奔流に飲み込まれたとき、私がさらされたのは、閃光・衝撃、それによって倒れていくビル群、そしてぐちゃぐちゃになる店内。
これらが全て納まったのちに、がれきの下から目にしたものは……

「あ、綾波さん」

 巨大な綾波さんでした。

 ふと、後ろに気配を感じ振り向くと、いつもの表情とは異なる、柔らかい、それでいて無機質な微笑みを湛えた綾波さんがこちらに手を差し伸べていらっしゃいました。
 その手を取った瞬間、「私」という存在は消失したのです。

 他者=私、私=他者、その世界は言い表すことのできないほど不思議で、幸福に満ち溢れていました。
私が幸福なのか、別の誰かが幸福なのか、その区別もなく、ただただ溢れだす幸福感に包まれている。
そう、そこはとても気持ちいい場所でした。

 しかし――私の心は満たされることはありませんでした。
自他の境界を失ってなお、存在し続ける心の空虚を、その幸福感は満たすことはありませんでした。
 その世界は確かに、誰も傷つくこともなく、私が傷つけられることも、そして傷つけることもない世界でした。
それでも……いえ、それだからこそ、私の心は空虚であり続けたのです。

 どれほど時間がたったころでしょう。
私は、自他の境界が存在しなくなったこの世界で、個を保っている人々を目にしました。
一人の少年に向かって、少年と少女が正面から相対していました。
一人で立っているのは、黒目・黒髪の少年。
彼に相対しているのは、一人は銀髪で紅い目の少年。
そして最後の一人は、綾波さんでした。
 
「……綾波、ここは?」
「……ここはLCLの海の中。A.T.フィールドを失った、自分の形を失った世界」
「僕は、死んだの?」
「……いえ、すべてが一つになっているだけ。あなたの望んだ世界、そのものよ」
「でも、これは違う、違うと思う」
「……他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ」
「……また、他人の恐怖が始まるのよ?」
「いいんだ」
「ありがとう」

「あそこでは、嫌なことしかなかった気がする」
「でも、逃げたところにもいいことはなかった」
「だって、僕がいないもの、誰もいないのと――同じだもの」

「再びA.T.フィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」
「構わないよ。でも、僕の心の中にいる君たちは何?」
「『希望』なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの」
「『好きだ』という言葉とともにね」

「だけどそれは見せかけなんだ。ずっと続くはずがないんだ」
「いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ」
「でも、僕はもう一度会いたいと思った」

「その時の気持ちは、本当だと思うから」

 黒髪の少年がそう口にした瞬間、世界は変革した。再び奔流にさらされる私。
溶け合った、各人の自我が、再び分かたれていく。私が明確に構成されていく。
この激流の先には、きっと先程の世界よりもつらく、哀しみに満ち満ちた現実が待っている。
しかし、今度はそのさらに先にあるものは、より不確かでありながら、何よりも確実な人々の想い。

                      ――“希望”――


 
 その後一週間がたち、世界は再建へと向かっています。
私のようにこの世界へと戻ってきた人もいれば、あの紅い海の中に残ってしまった人もいます。
不思議なことに、政財界の大物も未帰還者の中に多くいるのですから世界の統治機構はやや混乱を来たし、困った事態になりました。
これから頑張ってそれらを整えなおさなければなりません。
 しかし、私は彼らを責めるつもりはありません。
確かにあの世界は……残酷なほどに私たちに優しかったのですから。

 そして、本日は喫茶店再開の日です。
そしてこれはある程度流通がしっかりしてきたことの証左であり、順調に復興していることを目に見える形で示しています。

――カランカラン――

 おや、さっそくお客様がいらっしゃったようです。
新装開店第一号のお客様はどのような方なのでしょうか。

「いらっしゃいませ」

 そこにいらしたのは……綾波さんでした。しかし、中々入店なさろうとしません。
そして、その表情には、どこかためらいが浮かんでいます。

「どうなさったのですか? どうぞお座りください」

彼女は、キュッ、と唇をかみしめて、覚悟を決めた表情で一歩を踏み出されました。

「私はマスターに、今まで隠してきたことがあります」
「実は、私は人間ではありません」
「私は――」

「ハイ、どうぞ」
「マスター、コレは?」
「ご注文はいつもの通り『…何でも構わないわ』ですよね」
「ですから今回は、新装開店ということで、最初にお出ししたメニューをご用意しました」

私は綾波さんの前に、そっとアールグレイとミルフィーユを置きました。

「最初の頃にも申し上げましたが、私はただのさびれた喫茶店のマスターです」
「そして……」

「あなたがたとえ何者であったとしても、この店で私と一緒に楽しい、そして穏やかな時を過ごしてくださった、大切なお客様ですよ。綾波さん」

 正直に申し上げますと、あの時――巨大な綾波さんを見たときから、薄々感づいていたことですが、それがなんだというのでしょうか。
私には全く関係のないことです。
お客様をおもてなしするだけの、ただのマスターにはね。
 
 その後しばらくしてから、綾波さんは帰っていかれました。
なんでも「碇君と約束しているから」だそうです。私に抜かりはありませんよ。
そっと、おそろいのカップがしまわれている、棚の中に目をやりました。


                   ≪その後のある日≫

――ねえ、碇君、今日は寄っていきたいお店があるの――
――綾波……別にかなわないけど、どうしたの? 急に――
――そこのマスターはとってもいい人で、とっておきのミルフィーユを出してくれるの――
――へぇ、楽しみだなあ――


――カランカラン――
「いらっしゃいませ」

今日の天気は、吸い込まれそうなほど高く、碧い碧い空ですね〜


〜Fin〜

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