糟糠の妻

                 Written by史燕

秋の収穫を終え、山の木々も葉を落とした今日この頃。
レイは甕の蓋を開け、一生懸命手で中をかき混ぜていた。

「うん、ちゃんと出来ている」

中から取り出したのは1本のニンジン。
鮮やかなオレンジ色が塩気を得て深みを増していた。
1週間前にぬか床に漬け込んでいたのだ。
レイの手には、米ぬかがびっしりと張り付いていた。

「ニンジンとカブ、もう食べ頃ね」

どれも第3村で採れた野菜だ。
植え付けから収穫まで、レイ自身も携わった。

「お母さーん。いるー?」

玄関から呼び鈴も鳴らさずに呼びかける声が聞こえた。
数年前に嫁いだ娘だ。

「はいはい、どうしたの?」
「お味噌ちょーだい」
「あら、またなの?」

彼女にも夫にも似ず、屈託なく天真爛漫に育ったその姿には、たくさんの苦労と、それ以上の喜びをもらった。
そんな彼女たちの愛の結晶が、愛し子の用件は、なんとも拍子抜けするものだった。

「えへへ、昨日味噌焼きに使ったらなくなっちゃった」
「もう、仕方が無い子ね」

もう20を過ぎてもまだまだ子供なんだから、と思いつつ、家を離れた頼りにされてうれしいのもまた親心。
母親の顔を知らない彼女にとって、自分が母親として出来ることは何でもやってあげたいというのが本心だった。

「佐倉さんにお願いして、また麹をもらわないといけないわね」
「ごめんね、ちゃんと仕込みは手伝うから」

佐倉ハルさんというのは、この村の女性陣のまとめ役。
子育てから旦那への愚痴、食材の調達など、井戸端会議で相談すればたちまちのうちに解決させてしまうのだ。

「あなたも自分で仕込んだらいいじゃないの」
「うーん、この間ハル先生に教えてもらったんだけど、どうしてかしょっぱくなっちゃうのよね」

「同じ分量なのにおかしいわね」と揃って首をかしげる姿は、まさしくうり二つ。

「幸い、大豆の脱穀は明日だから、そこでお願いしておくわね」
「お母さん、ありがとー」

お礼の言葉もそこそこに、保管されていた味噌甕をひとつ、勝って知った実家の戸棚から持ち出し、玄関から出て行った。

「我が子ながら、慌ただしい子ね」

そう呆れたように言ったものの、レイの表情は笑みを湛えていた。

「ただいま」

娘が帰ってから1時間と少し、一家の主が帰ってきた。

「お帰りなさい。今日は遅かったのね」
「いやあ、想像以上に釣れちゃって、運ぶのに手間取っちゃったんだ」

彼女の夫、碇シンジは、今日は川釣りに出ていた。
ノルマは1人2匹、それ以上釣れたときは持ち帰ってもよい。そんな按配だ。

「釣れたのは、鮎?」
「そうそう、多めにもらってきたよ」

バケツの中には4匹の鮎が泳いでいた。

「塩焼きにしましょう。捌くのはお願いしていい?」
「もちろん、いいよ」
「それじゃあ、私はお風呂の支度をしておくわ」

確認のために口に出せども、とうの昔から決まっている夫婦の役割分担。

「お風呂湧いたわよ」

声を掛けた主人の手元では、ちょうど内臓を取り終えた鮎がまな板の上に並べられていた。

「ありがとう、先に入らせてもらうね」
「ええ、ゆっくりして」

服には返り血ひとつ着いていないものの、さすがにうろこを落として血抜きをした彼の表情には疲労の色が浮かんでいた。

風呂場へと向かった夫の背を見送り、鮎をフライパンに並べ蓋をする。
鮎はこのまま弱火でじっくり、皮がパリパリになるまで。
隣では出汁を取り終えた小鍋を火に掛ける。
一口大に切りそろえられたジャガイモとサツマイモがぎっしりと詰め込まれ、コトコトと音を立てている。

「上がったよ」

タオルで髪を拭きながら出て来た良人に「もうすぐ出来るわ」と返事を返す。

焼き上がった鮎を皿に乗せ、食卓に並べる。
小鍋には味噌を溶かし、ひと煮立ちさせてお椀によそう。
最後に刻んだネギを散らして並べる。

「これもよく出来たの」

最後に運ぶのは、今日出来あがったばかりのニンジンとカブのぬか漬け。
味見をしてみた彼女にとって、会心の出来である。

「「いただきます」」

二人で向かい合って手を合わせる。
何年も繰り返したこの瞬間を、未だに愛おしいと感じるのだから不思議なものだ。
早速、シンジの箸は件のぬか漬けへ。

「うん、おいしい。この味が落ち着くね」
「何も特別なことはしていないのだけれど」
「でも、やっぱりきみのぬか漬けが一番だよ」

ぬか漬けに限らず、味噌汁に塩焼き。
どれも自分の妻の料理が一番おいしいと、本人を前に臆面も無く言ってのけるのが碇シンジ氏である。

「今日は、あの子も顔を出して」
「相変わらずだね。明日、鮎も持って行ってあげようか」
「最初から、そのつもりだったでしょ」
「あ、やっぱりわかった?」
「何年あなたの奥さんをしてると思っているのよ」
「きみには敵わないなあ」

食卓は穏やかに、だけど豊かに。
時の流れは進めどもそれは変わらず、これまでもこれからも。



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