驟雨の中で〜side R〜

                                           Written by史燕


――ポツン――
――ポツン、ポツン――
――ポツポツポツポツ――
――サーーーー――


 ふと、彼女が窓の向こうへと目をやったのは、雨が本降りになってきたときだった。
幸いにして、傘は持ってきている。

(……今日は、これから帰りましょう)

 彼女はそう思い、教室を後にした。

 玄関についてみると、そこには見知った少年が立っていた。
その手には雨具の類はない。
どうやら、傘を忘れてしまい、途方に暮れているようだ。


 しかし少年は、おもむろに靴を履き、鞄を頭にかぶせ始めた。

「……なにをしているの?」
「!!」

「あ……綾波!?」
「……なにをしているの?」

 彼女が近寄って話しかけると、少年は驚き、ひどくうろたえていた。


(……碇君、いったいどうしたのかしら)


「え、え…と、その」
「かっ、傘忘れちゃって……その、これから走って帰ろうとしてたんだ」
「……そう……」

(……碇君たちの部屋まで、ここから急いでも15分以上かかる。多分その間に濡れてしまうわ)

「……濡れるわよ?」
「かっ、帰ってすぐにシャワー浴びるつもりだよ」
「………」

(……たしかに帰ってすぐにシャワーで温まれば大丈夫かもしれない……。いえ、それでも風邪をひいてしまうかもしれないわ)

 彼女はそう判断すると、次の瞬間にはより良い解答を見つけ出すことに成功した。

――ガシッ――

「へ?」
「……行きましょう」

(……一度私の部屋まで一緒に行ってから傘を貸せば大丈夫。問題ないわ)

「いっ、行くってどこに?」
「……帰るわ」
「うんわかったよ、でもどうして僕の袖をつかんでらっしゃるんですか、アヤナミサン」
「……そのまま帰ってしまったら、濡れてしまうわ」

(……碇君に風邪をひかせないのがこの任務の目的…)


「だけど現に僕は傘がないわけでね…」
「……私の傘に入ればいいわ」
「いっ、一緒に?」
「……何か問題でも?」
「……あなたは傘がない、私は傘を持っている。そしてあなたに風邪をひかれると困るわ」
「そっ、それはそうだけど…」
「……行きましょう」

(……目標を確保、これより任務に移ります)

 彼女は、こうして少年を――半ば強引に――連れて帰路に着いた。
もっとも、彼女の傘は二人で入るには小さすぎるようで、雨足自体はさほど強くないにもかかわらず、少年の肩はしっかりと濡れていた……

「あっ、綾波……その、最近調子はどう?」
「……問題ないわ。使徒ももう来ないもの」

間が持たなかったのだろう、少年はがんばって彼女に話しかけたものの、あえなく撃沈した。

「………」
「………」

 その後、少年もどのように話しかければいいのか思いつかなかったのだろう。
しばらく、二人の間を沈黙が支配した……。と、そのとき――

――ピカッ、ゴロゴロゴロ――
「キャッ」

 稲光が走り、大きな音が轟いた。
それと同時に、少女はかわいらしい悲鳴をあげ、少年の右腕にとっさにしがみついてしまった。

 少年が自分の身に何が起こったのかわからないでいるころ、彼女の心の中は…

――ガクガク、ブルブル――

(一体何なの、あのすさまじい光は?それにあの轟音……N2爆雷よりも大きかったわ)
――怖い、恐い、こわい、コワイ、怖い、恐い、こわい、コワイ……――

――ガクガク、ブルブル――
「あの〜、綾波?」

 彼女の、あまりの様子に少年は声をかけてみるものの……

――ピカッ、ゴロゴロゴロゴロ――
「キャアッ」
――ガクガク、ブルブル――

……まったくもって、まともに話せる状態ではない。

「……綾波? 大丈夫?」
「…ガクガク…だ、大丈夫よ…ブルブル」

 これで、もし大丈夫だと判断できる人間がいたら、小一時間説教してやりたいところだ。
もっとも、我らが碇シンジ君はそういった輩ではないようだが…

「綾波……もしかして雷苦手?」

(雷……これが、雷。たしか、電位差が発生した雲または大地などの間に発生する光と音を伴う大規模な放電現象のことだったはず……)

「そ…ガクガク…そんなこと…ブルブル…な、ない『――ピカッ、ゴロゴロゴロゴロ――』」
「キャア〜〜〜ッ」

(なぜ? どうして? 私は雷について正しく理解しているはず。そう、ただの放電現象だわ)

(それなのに……)

――怖い、恐い、こわい、コワイ、怖い、恐い、こわい、コワイ……――

(……どうしてなの、震えが止まらないわ)

 彼女が今感じているのは、理性ではどうしようもない感情。
人間に根源的に存在する、遺伝子レベルで感じる、本能に起因する反応。

 人はかつてそれを外敵に感じ、また、自身が抗いえない力にも感じた。
原始宗教の発生も、すべてこの感情に起因すると言っても過言ではない。

 アニミズム・シャーマニズム・土俗信仰…表現はさまざまだが、大いなる力に霊的な要素を見い出したことから生まれたのが原始宗教である。
そこにあるのは「畏れ」「畏怖」といった感情。
こういった感情が、彼女の感じているものの正体である。
そう、これが――

『恐怖』


「綾波、ほら、もうすぐだから、ね」
「え…ガクガク…ええ…ブルブル」



             ――――15分後――――



 二人は、彼女の自宅である「402号室」と書かれた部屋の前に立っていた。
本来ならもっと早くついていて当然なのだが、彼女は雷が鳴るたびに震えて動けなくなっていたため、ここまで時間がかかってしまっていた。
……少年のここまでの心労は、推して知るべきだろう。

 とにもかくにも、こうして少年は彼女を自宅へと送り届けることに成功した。
少年には後でゆっくり休養してもらいたいところだ。

「それじゃ、綾波、僕はこれで」

(……碇君、行ってしまうの)

――行かないで――
――コワイの――
――さびしいの――
――ひとりにしないで――
――お願いだから――


・・・・・・ヒトリニシナイデ・・・・・・


「…まっ、待って」
「!?」

 彼女は、喉の奥から絞り出すようにして、今まさに玄関から出ようとしている少年に声をかけた。

「……家に上がっていって」
「えっ……」

 少年は突然のことに頭が回っていないようだ。

「……ダメ?」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて…」

 ここで部屋に上がった少年を責めないでほしい。
彼女は、その瞳に涙を湛えていたのだから……。

「おじゃましま〜す」
「……少し待っていて、今紅茶を入れるから」

 少年を自室に迎えるのは、彼女にとってこれが三回目である。
打ちっぱなしの壁は以前と変わらないが、過去二回とは異なり、部屋は清潔に整えられており、以前よりも人が住んでいる香りが感じられた。

「……碇君、できたわ」

 少し時間がたってから、彼女は紅茶を持ってきた。
どうやら、アールグレイのリーフティーのようである。

「おいしいよ。綾波、紅茶入れるの上手くなったね」
「……あ、ありがとう//////」

(……よかった、碇君「おいしい」って言ってくれた)

 実は、彼女が自分以外のために紅茶を淹れるのは、今回が初めてである。

「それじゃ、綾波…そろそろおいとま『――ピカッ――』」

「キャア〜〜」
――ギュッ――
――ゴロゴロゴロゴロ――

「!!!」
「……もう少し…ガクガク…もう少しだけでいいから…ブルブル…お、お願い…ガクガクブルブル」
「う、うん」

  こう言われると、断るに断れないのが碇シンジという人物である。
 そうして、雷がおさまるまで、少年は彼女に右腕を貸し続けるのであった。



――――そして雨は上がる――――



「……碇君、今日はごめんなさい」
「いや、かまわないよ、誰にでも苦手なものはあるし…」
「……それで、お願いがあるのだけれど」

 彼女は、不安そうに少年に尋ねた。

――クスッ――

「いいよ、誰にも言わないよ」
「……それもお願いだけど、そうじゃなくて…」
「???」

「……また、来てくれる?」
「へっ?」

(……あっ、思わず言ってしまったわ。厚かましかったかしら)

(もしかしたら、碇君に嫌われたかもしれない)

 彼女の脳裏に、一瞬最悪の想像が浮かんだ。

 しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。

「も、もちろんだよ」

 少年がそう答えると、彼女の表情はパアッと明るくなった。 「……ありがとう」

「うん、こちらこそ、おいしい紅茶をまた頼むよ」

 そう言い置いて、少年は帰路についた。

 彼女はその晩、なかなか寝付けなかったようだ。

――碇君、「おいしい紅茶を」って言ってくれた――
――そういえば、碇君の手、あたたかかった――
――今も、あたたかい――
――この気持ち……嫌じゃないわ……――



 今夜、彼女が何を思ったかを知るのは、雲の切れ間からそっと顔をのぞかせる、美しい満月だけである。


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