あなたを思えば
後日譚〜あるいは、綾波レイが見たかった景色〜
Written by史燕
その日、私は碇君とある病室を訪れていた。
「ねえ綾波。やっぱり綾波だけで行ってきてくれないかな?」
「碇ゲンドウ」と書かれた表札の前で尻込みする碇君の気持ちはわかるけど、この期に及んでそれは戴けないと思う。
「ダメ」
「やっぱり、明日でもいいんじゃないかな」
「ダメ。今日行かないときっと後悔するわ」
「うん、わかったよ」
若干情けない表情を見せながらも、なんとかドアの向こうへと足を進めている。
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」と念仏のように唱えているのは、聞こえないふりをしてあげる。
「誰だ?」
碇司令が物音に気づいたみたい。
「あの、シンジだけど」
「シンジか」
「うん、もう面会できるって綾波に聞いたから」
碇司令はサードインパクトが終息した後、地下から病院へと搬送された。
インパクトの時に私の中へと消えていった左手はA.T.フィールドが再構成された影響か復元されていたけれど、緊張の糸が切れたからか、目標を喪ったからか、しばらく意識を取り戻さなかった。
碇君もずっと心配していたけれど、どうにも踏ん切りが付かずにお見舞いが出来ずにいた。
その勇気をせっかく出してここまで来たのだから、きちんと目的を達してほしい。
もっとも、急な対面に対応を窮しているのは碇司令も同様で、そういう意味では似たもの父子だと思う。
複雑な事情があり、すぐに普通の親子のようにはなれないのはわかっている。
でも、だからこそ、こうして会話をする機会を設けなければ前に進めない。
これは完全に私のわがままだけど、大切な人である二人にはやっぱり後悔して欲しくないから。
病室を重苦しい沈黙が支配する。
私が入って行ってもいいけど、それでは意味が無い。
そう思っていると、先に口を開いたのは意外なことに碇司令だった。
「紅茶を」
「なに?」
「紅茶を淹れるのがうまいそうだな」
碇司令の突飛な話題の出し方に、碇君は困惑を隠せない様子だ。
「どうして? 綾波から聞いたの?」
「ああ、ユイも上手だった」
そう言った碇司令の子うぃろは穏やかで、視線はかつてのようにここではないどこかに向いておらず、しっかりと碇君を見つめていた。
「ねえ、愛してたの。母さんのこと」
「ああ、今も愛している」
「母さんには、会えたの?」
「会えたよ。それだけでよかった」
親子の会話、ユイ博士という本来ならば共通であるはずの存在。
それに対して訥々と話す碇君と司令。
たぶんきっと、これでよかったのだと思う。
「なあ、シンジ」
「なに、父さん?」
「次に来るときは、紅茶を淹れてくれないか?」
「もちろんだよ」
「なあ、シンジ」
「なに、父さん?」
「大きく、なったなあ」
そう言って碇司令は碇君の頭を撫でた。
何度も何度も、慈しむように。
碇君は少しくすぐったそうだったけれど、決してその手を払いのけようとはしなかった。
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