あなたを思えば
最終話
Written by史燕
補完された意識の中で、全ての統合された人々の魂は安息の内にあるらしい。
らしい、というのは、私にはその実感がないからだ。
愛する人の姿を象った私を思い浮かべて補完された人。
素のままの私を見つめながら補完された人。
多くの人が幸福で、穏やかで、傷つける他者の存在しない世界だった。
まるでゆりかごのような、羊水の中に浮かんでいる赤子のような、そういうふわふわとして、捉えどころの無い世界。
何かを捉える必要は無いのだ。
自身と他者を分かつA.T.フィールドの存在そのものが喪われたのだから。
そんな世界の中心に碇君はいた。
「ここにいたのね」
「綾波、来てくれたんだね」
「碇君が呼んでる。そんな気がしたから」
「ありがとう、綾波」
「ねえ、碇君。この世界は本当にあなたが望んだものなの? たしかに他人を傷つけることも、傷つけられることもない平和な世界だけれど」
私は碇君を見つめながら言った。
「ごめん、違うと思う。もしかしたら心の奥底で一度は望んだものかもしれないけど、今は違う」
碇君は私を見つめ返しながら言った。
「ここには幸せなんてない」
「ここには誰もいないもの」
「悪いことも無ければ、いいことも無い」
「死んでいるのと同じだ」
だけど、私は碇君に確認しなければならない。
彼が傷つくのは嫌だから。
たくさん傷ついてきたことを知っているから。
「他人を今一度望めば、他人という恐怖が、また始まるのよ」
「うん。僕はそれでも他人と、君と手を取り合って生きていきたいから。それが僕にとっての希望だから」
その答えを聞けば充分だった。
彼の願いと私の想いが重なり合って、紅い世界は弾けた。
それは、新しい世界の芽吹き。
それは、古い世界の続き。
他人という恐怖と共に、誰かと隣り合い、支え合う優しさを包摂した世界。
新しい世界へと還るに際して私は碇君に訊ねた。
――碇君、あなたは何を望むの?
――また、きみと紅茶が飲みたいな
――いつでも、喜んで
私はきっと、今度はうまく笑えていると思う。
目の前で笑う、愛しいあなたと一緒なのだから。
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