連作SS:ミルフィーユA

                       雨落ちる夕刻

                                           Written by史燕



――カランカラン――
「ありがとうございました」

 いやはや、今日は朝からしとしとと雨が降り続いているせいか、あまりお客様がいらっしゃいません。
先程まで、久しぶりに帰宅するという作業着を着た、40代頭の気のいいお父さんが一人いらっしゃっただけでした。
なんでも娘さんのお見舞いの帰りだとか。
しかも来週退院が決まったといううれしい知らせをしきりに話してくださいました。

――カランカラン――
「いらっしゃいませ」

……本日二人目のお客様は、あの紅い瞳のお嬢さんでした。

「一週間前ぶりですね」
「また来てくださったのですね」
「……ミルフィーユ」
「ミルフィーユ…ですか?」
「……儲けさせてって……」
「あぁ、あの話…憶えていてくださったのですね」
「……“絆”、だから……」

 おや、うれしいことを言ってくださいますね。今日は思ったよりいい日みたいです。

「お嬢さん、今日は何になさいますか」
「……綾波、レイ……」
「あやなみれい?」
「そう……あなた、だれ?」

 そう訊かれてはじめて、「綾波レイ」というのがこのお嬢さんの名前であることが分かりました。

「ただのさびれた喫茶店のマスターですよ、綾波レイさん」
そう答えた後、彼女はかなり困惑した様子で

「……それじゃあ、何と呼べばいいかわからない……」
とおっしゃりました。

「マスターでかまいませんよ、綾波さん。」
「ここのマスターは私だけですし、失礼ですが綾波さんがマスターと呼ぶのも今のところ私だけですよね。」
「ですからマスターと呼んでください」

綾波さんは、やや戸惑ったご様子でしたが、少ししてから、ギリギリ聞き取れるか聞き取れないかぐらいの声で「ま・・・『マスター』」と呼んでくださいました。

「はい、なんにいたしましょうか、綾波さん」

 そうすると、彼女はほんの少し笑みを浮かべてくださいました。
私はそのとき、それにあわせて店内も華やかになったように感じられました。
「……何でもかまわないわ」とのことですので、今回はカフェ・オレとチーズケーキをお出ししました。

「少し、年寄りの話し相手になってくださいませんか?」

コクリ、とうなずいてくださったので、私もモカとチーズケーキを用意して、腰を下ろしました。

「この一週間は、どうなさっていたのですか?」
「……テストで、忙しくて……」
「そうですか」

「それで、最近、調子はどうですか?」
「……あまり、良くないわ…ここのところ特に伸び悩んでいて」
「なるほど、それでも、ある一定のレベルには達していらっしゃるのでしょう?」
「……ええ」
「……とりあえず、問題ない程度には……」
「でしたら、焦る必要もないのではないですか?お聞きしたところ、よくもなければ悪くもないという……誰しも、調子のいいとき、悪い時があるものですよ」
「……そう、かもしれない」

 学生さんというのも、大変なものですねぇ。調子と聞いて、すぐに勉強のことと結びつけてしまわれるなんて…
しかし、改めてみると整った顔立ち、印象的な水色の髪、そして見ているこちら側が吸い込まれるような紅い瞳と、絶世の美少女というのは彼女のことを指すのでしょうね。
もっとも、少々とらえどころのない面も見受けられますが…。

「……綾波さん、クラスの子が言い寄ってきて仕方がないのではありませんか?」
「……言い寄る?」

 ほんとに理解できないようでいらっしゃいます。

「いや……気になる男の子とかいらっしゃらないのですか」

 そう尋ねると、彼女は首をかしげました。

「……わからない……」

 う〜ん、本当にわかっていらっしゃらないみたいですね。
このくらいの年ごろだと、好きな子の一人や二人いるものですし、そうでなくとも、周りが放って置かないでしょうが……。

「…………でも、碇君といるとあたたかくなる」

 まだ、生まれたばかりの感情ですか。以前も少し世間知らずな印象を受けましたが、ここまでとは……。
このことは、彼女自身が気付くべきでしょう。時が来ればきっと……。

「綾波さん、もし彼氏が出来たらうちに連れてきてくださいよ」
「……彼氏?」

 あらら、そこからですか。どういえばいいんでしょう?

「恋人のことなのですけど」
「……こい、びと……」
「恋人」
「好きあった男女のこと」
「将来を約束し、一緒に暮らすことを前提とした存在……」
「うっ……まあ、それであってはいるのですが……」

 正直なところ、彼女に実感が伴っていないようなら、無意味だと思っていたのですが、そうでもないみたいですね…。
これは、二つカップをご用意する日も近いのでしょうか。

 しばらくして、すべて食べ終わった彼女は「……時間だわ」とおっしゃって席を立たれました。

――カランカラン――
「ありがとうございました」

ほんとうに、楽しい時間をありがとうございました。


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