連作SS:ミルフィーユ外伝

                              陽光を受けて

                                             Written by史燕



私も喫茶店を再開してしばらく経ちました。
今は第3新東京市へ疎開先から戻って来られる方もひと段落して、市役所の皆さんも「これでもう戸籍管理はコリゴリだ」なんて軽口を叩きながらうちでコーヒーと昼食を召しあがっていかれます。
それはNERVの皆さんも同様だったそうで、しばらく常連さんの足がめっきり遠のいてしまいました。
もちろん経営なんてあってないようなものですので別にいいのですが、私としては皆様が心配でなかなか落ち着きませんでした。

後からお聞きしたところによると、一時期は昼食すら碌に召し上がる時間さえ取れなかったそうで
「いやね、マスター。別に浮気していたわけじゃないんだよ」
「そうそう、俺たちもどれだけマスターのコーヒーが恋しかったことか」
「もう適当に淹れたインスタントの味気ない苦みは嫌なんだ」
「ああ、あの味があるのかないのか微妙な奴な」
などと口々に仰っていました。

そんな、穏やかな中にも不思議な賑やかさが戻ってきたある日、私はふと思い立って街を歩いております。
街の中心から外れた住宅街、転居し来た住民の皆さんが住む高層マンションと元からこのあたりに住む農家の皆さんの一軒家がそれぞれ固まって立ち並んでいます。
第3新東京市への首都機能移転は再度行われているそうで、この辺りは新しい街と古い街が混在する、少し不思議な街並みです。
当初は瓦礫だらけだった街も、今となっては道もきれいに舗装され、子供たちが元気に駆け回っているのが見えます。
暖かい日差しが、辺り一面に降り注いでいます。
そっと頬を撫でた風からは、芳しい春の匂いがしました。

「桃の花ですか、もうそんな季節なのですね」

少し郊外に出たからでしょうか、薄紅色の花びらを咲かせた木々が道端に並んでいました。
その周りには黄色い花を咲かせた菜の花が繁茂しています。
セカンドインパクト以降、桃の花も菜の花も日本で咲くことはなかったのですが、先日地軸がどうにかこうにかで、また日本に四季が戻ってきたのだとどこかの大学の教授先生が解説していらっしゃいました。 ……その最初の四季が冬だというのはさすがに辟易しましたけどね。
久方ぶりに見た雪には大変感動しましたが、芯が凍るような寒さは堪りませんでした。
おかげさまで仕事帰りにコーヒーをというお客様がいらして、少しばかりうれしい忙しさを経験しましたが。

桃の花と菜の花に囲まれながら、子供たちが私の隣を走り抜けていきました。
私にここへと足を運ばせた何かがこれだとすると、なるほどここまで来たかいがありました。

「春のケーキ、というのもいいかもしれませんね」

さてどんなケーキにしましょうか。
そう考えていると、見慣れた碧い髪が目に映りました。
そういえばこの辺りにお住まいだったのでしたか。
たしか以前そう伺ったはずだと、遠い記憶のなかからおぼろげに呼び起こしました。

ただし綾波さんの恰好はいつもの制服姿ではなく、淡いピンク色のワンピースにかかとの低いパンプスを履き、小さな手提げバッグを片手にしてとおめかししていらっしゃいましたが。
果たしてこれはどうしたものかと様子を伺っておりますと、一人の少年が駆け寄っていったのがわかりました。

「なるほど、デートでしたか」

あの彼が例の碇さんだとすると、なるほどどうしてお似合いのカップルではありませんか。
話には聞いていても実際にこの目で見るのは初めてですが、どことなく優しげな面差しは好感が持てます。
もっとも、綾波さんから聞かされた話による先入観があるのは否めませんけどね。
少年が綾波さんを誘って歩きはじめました。
たしかあの方向には桜で有名な少し大きな公園があったはずですが、この様子だと公園デートというわけですね。
あらあら二人で仲良く手なんか繋いじゃって、初々しいですねえ。
……これ以上は無粋ですね。もう十分無粋なのですけども。
この歳で馬に蹴られたくはありませんし、ここまで足を伸ばしたついでに知り合いの農家さんにごあいさつして帰りましょう。
先日お電話で「見せたいものがある」と言われましたし……。



――カランカラン――
「ありがとうございました」

帰宅した私は店を開けるといつものようにあまり多いとは言えないまでも、それなりにいらっしゃるお客様のお相手をしていました。
といっても今しがたお帰りになられたお客様で最後ですが。
ただいまの時刻は17時を少し回ったくらい。
今日は休日ですからこれからあまりお客様はいらっしゃらない時間帯ですね。
平日だと18時ごろから帰宅途中のお客様がいらっしゃるのですが……。
とりあえず片づけてから一休みするとしますか。

――カランカラン――

新たなお客様のようです。
どうやらそうそうサボるなということですね。

「おや」

キッチンから出てくると、私がご案内する前にお客様は席に座られていました。
――カウンターの一番奥は特等席。
いつしか私と常連さんたちの間で暗黙の了解となったことです。
今日もまた、赤い瞳のお嬢さんが特等席に座っていらっしゃいました。
いつもと違うのは、隣の席に一人お連れ様が座られていることですけど。

「あ、綾波っ、いいの? 勝手に座っちゃって」
「……構わないわ」

「いらっしゃいませ、綾波さん」
「……こんにちは、マスター」

これで構わないですよ、そう言外に伝えるように、私も綾波さんもごく当たり前に挨拶をかわしました。

「綾波さん、よろしければお連れの方を紹介して戴けませんか?」

私としてはとっくに目星はついていますが、きちんとした紹介はまだなのですよね。
その人となりは今までお聞きした話を抜きにしても、大体わかりましたけど。

「……碇君よ」

簡潔な紹介。
……実に綾波さんらしいので、思わず笑ってしまいました。
綾波さんにしてみれば、私に色々話をしているのだし、これで伝わるだろうと思われたのでしょう。
実際私もわかっているわけですしね。
ところが、紹介された当人はそういうわけにもいかないようで

「いっ、碇シンジです。その、綾波レイさんとお付き合いさせていただいております」

そう言うと、テーブルに頭がつきそうなくらい頭を下げられました。
……自己紹介をしていただくのは結構ですが、私は綾波さんの父親ではないのですが。
この流れだとまるで「お嬢さんを僕にください」とでも言い出しかねません。

「ふふふっ」

そのままどうしたものかと思案に暮れる私と、頭を下げたまま動かない碇さんを見て、綾波さんが笑っておられました。
控えめな笑い方ではありますが、それはもうしっかりと。
それはそれは「大変愉快だ」という風に。

「ふふっ、ごめんなさい。でも、碇君とマスターの様子があまりにもおかしくて」

おかしいのは自覚しておりましたとも。えぇえぇ、それはもう。

「勘弁してよあやなみぃ」

碇さんが綾波さんに言い募りますが意に介した風もありません。
それどころか

「……『マスターは私のお父さんみたいなもの』というのはほんと」

「ねっ、マスター?」という風に私に視線を向けられます。
まったく、敵いませんねえ。
「たしかに、僭越ながらそのような間柄なのは事実ですよ」

「ほら、嘘は言ってないでしょう」と、綾波さんが得意げに碇さんを見つめると、「もう降参だ」という風に碇さんが両手を挙げられました。
見事に綾波さんにしてやられたというわけですね。

「それで、ご注文は?」
「……ミルフィーユと飲み物はマスターのおすすめで」
「僕も同じものをお願いします」

綾波さんは普段いつもケーキも飲み物も含めて「マスターに任せるわ」とおっしゃるのに今日はミルフィーユをご所望、ということは碇さんに話されたわけですね。
碇さんはあくまでここの常連の綾波さんに合わせる、と。
なるほど、なかなかに信頼されていますね。私も、綾波さんも。
それでは、仕方ありませんね。

「お二人とも、ミルフィーユとアールグレイになります」

しばらくして、御歓談中のお二人の前に私がお持ちしたのは、綾波さんに最初にお会いしたときのメニューです。
純粋にうちのミルフィーユに一番合うのは少しはちみつを溶かしたアールグレイだと私が思っているからですが。

「……ありがとう、マスター」

綾波さんの言葉から、「やっぱり」と予想していた風な様子を感じ取りました。
随分とあっさりしたものですが、綾波さんがこの組み合わせを気に入っていることも存じ上げております。

「いただきます」

そう言って口をつけた碇さんは「美味しい」と驚いていらっしゃいました。
綾波さんは「碇君も気に入ったのね」と言いながら自分のミルフィーユにもフォークを入れてらっしゃいましたが。
ご満足いただけたようでなによりです。

しかしですね、今日はこれだけじゃないのですよ、お嬢さん。

「こちらは、私からのサービスになります」

そう言って私は、お二人の前にもう一つ別のケーキをお出ししました。

「……これは?」

綾波さんも予想外の事態に驚いてらっしゃいます。
してやったり、という充足感が私の胸に溢れました。

「春のケーキ、ということでいちごのタルトになります」
「春に、いちごですか?」

そう碇さんが不思議そうにおっしゃいます。
いけませんね、不勉強は減点ですよ。
そう思っていると、「げ、減点……」と落ち込んでらっしゃいました。
どうやら声に出ていたようですね、気を付けないと。

「いちごというとクリスマスの影響で冬のものだと思われがちですし、少し前まで夏しかなかった日本ではハウス栽培だったのでいちごが春というイメージはないかと思われます。セカンドインパクトの後いちごの栽培も難しかったものと聞いていますから」
「しかし、いちごの旬は春先、つまり今なのですよ」

ご理解いただけましたか、と水を向けると碇さんはしきりに首を縦に振っていらっしゃいました。
むう、少し引かれましたかね、心外ですが。
そう、今日お伺いした農家の方からいただいたのがこのいちごになります。
「見せたいもの」というのは、この採れたてのいちごだったのです。

「そういうわけですので、旬の味をお召し上がりください」
「……もう頂いたわ、マスター」

私が話を締めた瞬間、綾波さんの声が入りました。
はっ、早い。
ご丁寧に「ごちそうさま、おいしかったわ」と言い置いて、カップを傾けてらっしゃいます。
こればかりは、私も碇さんも揃って苦笑するしかありませんでした。

「ほら綾波、口元にクリームがついてるよ」

そう言って碇さんは綾波さんの口についたクリームを指で掬い取ると、その指をそのままペロリと舐められました。
綾波さんもそれを気にした様子もなく「ありがとう、碇君」と言って流してしまわれました。
ここまで完全に素でやってらっしゃいます。
てっ、天然ってすごいですね。
ああ、私は口の中が大変甘ったるくて甘ったるくて……。
そうだ、ブラックコーヒーを淹れましょう……とびっきり濃いのを。

私がそう思っていると、「どうしたのマスター?」「大丈夫ですか」なんて二人してこちらを見つめてらっしゃいます。
ああもうっ、いちゃつくならこっちを巻き込まずに二人だけでやっていていただきたいものです。
そんな私の様子を知ってか知らずか、いや知るはずないですよね。
とにかくこちらを気にせず、「クリームのお返し」なんて言いながら碇さんは自分のタルトを綾波さんにアーンなんてするものですから……。
はあ、他のお客さんがいなくてよかったですよ、ほんと。

そうして私がコーヒー3杯飲んでもまだ足りないほど、たっぷりあまーい空間を形成してからお二人は帰っていかれました。

――……また来るわ、マスター――
――今度も二人でお邪魔しますね――

最後にそう言い置いて。

まったくもう、二人そろってお幸せそうで何よりですよ。 これでもかというほど甘い空間を作っていった恋人たちに向けて、次はどんなケーキを用意しておこうかと考えながら、私はカウンターに並ぶ二つのカップを眺めていました。


〜〜Fin〜〜




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