夕空晴れて

                 Written by史燕



重苦しい天気の中、街を歩いていた。
気分が優れないのは、なにも鈍色の雲のせいばかりではない。
監視が付いてはや1年。
それほどまでに、サードインパクトの引き金をたまたま引いてしまったことが、悪なのであろうか。

知っている、世間一般では十二分に悪なのだということを。
知っている、なればこそ、名前を晒さずに生活できているだけ、格子の外にいるだけ温情なのだということを。

それでも、首につけられた鎖は短く、手足に?められた枷はうっとうしい。

死んでしまった加持さんやミサトさん、リツコさん。
母さんと旅だった父さん。

彼らに恨み言のひとつも無いと言えば嘘になるが、憎悪を向けるのももはや疲れた。

同世代と会うことなど無く、保護という名の温かい座敷牢に閉じ込められ、衣食住さえ自ら手を出す必要はない。
単純な理由だ。
刃物を持たせればなにをしでかすかわからない狂人、それと同列に扱われている。
全人類を巻き込んだ無理心中なぞごめんだというのが、あの海から還ってきたお偉いさんの本意なのだろう。

では、自分はどこに向かっているのか。
どこにも向かってはいない。
碇シンジ、その忌み名を持つ存在を受け入れる場など、ありはしないのだから。

ふらふらと、あてどなく歩き、目の前には図書館があった。
ありがたいことに義務教育さえ免除――と言えば聞こえがいいが、要するに同世代との隔離――をされている身としては、
紙の本というものを手繰ってみるのも暇つぶしにはいいかと思った。

本を見ると、あの少女を思い出す。
教室の窓際の席に座り、本のページをめくっていた碧髪の少女を。

彼女が手にしていた赤い装丁の本を探す。
タイトルなんて覚えていないから、雰囲気だけが頼りだ。
幸いにして似たような本はすぐに見つかった。
厚く、重い。
パラパラと数ページ流し読み、閉じた。
よくもまあ彼女はこんな本を飽きもせず読み続けていたものだと感心さえ覚える。

それでも彼女をまねして活字に酔いそうになりながら、再び本を開く。
少しだけ、彼女に近づけるような気がしたから。

本の内容というより、本を読んでいた彼女がなにを考えていたのか、そんなことにばかり思いは巡る。

“その少女は、ガラス容器に横たわる自分自身を見た”
“「これが、オリジナル」”
“少女は自身が目の前のそれのスペアでしかないことを改めて実感した”

古典的なSF小説。
特に名作として知られている訳ではない旧世紀に書かれた中の一冊。
あらすじは、何の変哲も無い日常を送っていた少女が、実は不治の病に冒された自身のオリジナルから複製されたクローンであり、
その事実に直面し、思い悩んだ上で「それでも私は」と自分の意思で日常に還っていくというもの。
楽しいと感じたこと。
悲しいと感じたこと。
恋をしたこと。
それら全てがオリジナルの模倣でしかないのではないかと懊悩しながら「好きだと思ったこの気持ちは本物だから」と心の在処こそ自分の存在証明だと気づく。

綾波、きみはこの作品を読んでどう思ったの。

綾波レイという少女が生きている。
この世界に存在している。
そのことが、無性に知りたくなった。
そして、その答えが得られないこともわかっていた。
綾波に限らず、チルドレンとの接触は、それを企図することすらタブーだ。
少なくとも、僕はそう聞かされていた。
ましてや、僕と彼女は渦中の中心人物だ。
会おう、などと思って面会が許可されるはずもなかった。
聞かされた死亡者リストには名前がなかった。
それだけが、唯一の救い。

彼女に会いたい、会って話がしたい。
話をして、どうするのだろうか。
そんなこともわからないまま、ただただ会いたかった。
その声を聞きたかった。
ひと目だけでいい、その紅い瞳を、また見つめたかった。

「あの、起きてください」

目をこすりながら顔を上げると、司書らしき女性が困った顔でのぞき込んでいた。
気がつけば、すっかり寝入ってしまったらしい。
開いたままの本に折り目がついていないか慌てて確認、どうやら大事なさそうだ。

「その、閉館時間です」
「ごめんなさい、ちょっと疲れてたみたいで」

護衛という名の監視に、心の中で罵詈雑言を並べる。
窮屈な思いをさせているくせに、こんな時には迷惑を掛けないよう早めに起こすくらいのことはできないのか。

「それと、その本を借りたいという方がいて」

借りるつもりがないなら譲ってあげてほしい、言外にそう言っていた。
言いづらそうにしているうえ、そもそもはこちらの落ち度だ。

「ええ、構いませんよ」

言葉が少なくなりがちなのは、最近他人としゃべっていないから。
本を持ってカウンターに向かう彼女を追うようにして、出口へと向かう。
行きがけの駄賃に、その本をどうしても借りたいという人物は果たしてどんな人なのか見てみたかった、という興味もあった。

「お待たせしました」
「わざわざ、ありがとう」
本棚に隠れてよく見えないが、どこか聞き覚えのある声が聞こえた。
果たして他人の空似か、それとも知り合いかとのぞき込んでみると、どんっ、と思わず本棚に頭をぶつけてしまうほど驚いた。
空色の髪は、記憶よりも幾ばくか長くなっただろうか。
身長は変わらず、もうその学校は存在しないにもかかわらず、記憶のままに制服を身につけていた。

「あやなみ」

小さな声でつぶやく。
ひと目見たかった。
夢でも会えたらよかった。
その彼女が、現実に、手に届く場所にいる。
声が聞きたい、話がしたい。
それでも声をかけられないのは、自分の中に負い目があるから。
彼女のためになにもできなかった。
彼女のことを理解しようとさえしなかった。
二人目とか三人目とか関係ない、自分が綾波レイに対して犯してしまった罪の意識。
それでも、あの赤い海で、僕に託してくれた、その手をつかめた、その事実がありがたくて。
それ故に、ここで声を掛けることに躊躇を覚えた。
彼女が、僕と関わりの無い彼女が、そのままの日常を穏やかに過ごせていたのなら。
災厄の箱を開けたパンドラという愚者。
それと同列になるような気がした。
あの日々と関わりのない生活、彼女のことを知らない温かな人々。
もしそれを手にしているのだとしたら、おそらく僕はただの異物だ。

僕はなにも見なかった。
気がつかなかった。
そう言い聞かせてきびすを返す。
「本当にそれでいいのか」
いいに決まっていると自分の声に耳を塞ぐ。
「あれほど会いたかったのに」
だからこそひと目見れただけで十分じゃないか。
しかし、このとき僕は失念していた。
人生というゲームのプレイヤーは、僕一人だけじゃないということを。

「碇君?」

呼ばれてしまった。
呼ばれてしまっては、振り返らない理由がなかった。
どんなに言い訳をしようと、どんなに罪悪感に苛まれようと、彼女とまた、話がしたかった。

「綾波?」

わかっていながら、さも今気がついた、奇遇だね、という風に取り繕う。
そんな自分が嫌いだ。
だから、軽く挨拶をして立ち去ろう、元気な姿を見れただけでいいじゃないか、そう思いながら、
視線は彼女の瞳に捕まり、足は遠ざかるどころか、硬直して一歩も動けない。
そうこうしているうちに、彼女の方がこちらに近づいてきた。
今すぐ逃げ出したい、このまま話をしたい。
相反する二つの欲求が、僕の中の行動権を奪い、不格好に棒立ちという選択肢を選ばせた。

「明日も、来る?」
「あ、うん。来るつもりだよ」
「明日、ゆっくり話をしましょう」

そう言った彼女は、記憶よりも雰囲気が柔らかく。
恐れていた糾弾は、いつまで経っても訪れそうになかった。

彼女はそのまま玄関を出て、先行していた護衛に左右を固められながら立ち去った。
役立たずに思えた僕の護衛も、彼女が離れたのを見計らって接近し、帰宅を促している。

「図書館、明日も来るから」

彼らから、答えはなかった。
だが、沈黙は、肯定の証。

「また明日、必ず来るよ」

今度は、もう見えなくなった少女への、届かない返答。

空を覆う雲は晴れ、燃えるような夕焼けが広がっていた。



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