再び巡る時の中で

                   「レイの退院」

                                         Written by史燕





翌日、シンジは約束通りレイを迎えに来ていた。
二人とも変わりばえのしない制服姿だ。
長期の入院だったが、基本的には着替え位しか私物は無いので、思ったより荷物は少ない。
あとはこれからバスに乗り、レイの部屋へと二人で向かうだけだ。

――ブッブーー――

どうやらバスが来たらしい。

「綾波乗るよ」
「……ええ」

二人がバスに乗ると、他に乗客はいないようだった。
平日の昼間ということと、NERVの病院から市街地へと向かう便だからだろう。
レイが窓側、シンジが通路側の席に座ると、おもむろにレイが口を開いた。

「……碇君、その」
「どうかしたの、綾波?」
「……今日は、ありがとう」
「い、いいんだよ、別に」

シンジは面食らっていた。
ここ数日、レイは基本自分からは話さず、じっとシンジの話を聞き、言葉少なに相槌を打つだけだったのだ。
まさかお礼を言われるとは思っていなかった。
一方レイはというと、慌てるシンジの顔を不思議そうに見ていた。

(……ありがとう、感謝の言葉)
(……私が、初めて言った言葉)
(……どうして、碇君は慌てているの)

「あ、綾波」
「……何? 碇君」
「そ、その……」
「?」

はっきりと言わないシンジに、レイはますます不思議に思う。

「はじめて笑ってくれたね」
「……笑う」

ふと、窓を見ると、自分の顔が映っていた。
たしかに笑っている。

(……笑う、人が笑うのは楽しいとき、うれしいとき)
(……そう、私は今楽しいのね)

「……はじめて」
「えっ」
「……はじめてなの、笑ったの」

シンジも、(たしかにヤシマ作戦まで笑ったとこ見たことなかったな)と思っていた。
とはいえこれまで笑ったことが無かったとまでは思っていなかったのだ。

「僕は、綺麗だと思うよ」
「……綺麗?」
「そう、綾波の笑顔、綺麗だと僕は思う」
「あ、べっ別に普段が綺麗じゃないとかそういう意味じゃなくて」
「……そう」

レイはまた突然慌て始めたシンジを尻目に、今言われたことを反芻していた。

(……綺麗、笑顔が綺麗)

そうこうしているうちに、バスはレイの部屋の近くへ着いたようだった。

「……碇君、降りましょう」
「あっ、もう着いたんだね」

レイに声をかけられ、ようやくシンジも目的地に着いたことに気付いた。
バス停からさほど離れていない古いマンションに、レイの部屋はあった。

「綾波、荷物はここでいいかな」
「ええ、かまわないわ」

荷物を運び終えたレイは、部屋の奥へと向かった。
シンジはレイを待ちながら、部屋の様子を観察していた。

(簡素なベッドに打ちっぱなしのコンクリートの壁)
(中央のテーブルに、包帯の入った段ボール)
(他にあるのはメガネの乗った木製のチェストが端に一つ)

「あれ、たしかあのメガネって……」

そうつぶやいた瞬間、ここでレイを押し倒したときのことを思い出し、シンジの顔は真っ赤になった。
折しも、裸ではないとはいえ、その時と同じ方向から、二人分のお茶を持ってレイが出てきた。

「……碇君どうしたの?」

そんなシンジの事情を知らないレイは、そんなシンジの様子を不審そうに見ている。

(ま、まずい、まさか綾波の裸を想像していたなんて言えないし……)

そんなことを言ったが最後、レイは自分のことをあまり気にしないとはいえ、変態扱い確定である。
「……碇君はそんな人だったの」と言って軽蔑されてしまいかねない。
いや「問題ない」と髭司令のように言われるのもそれはそれで困るのだが。

「いや、綾波ってメガネかけるんだなって思って」

慌てて目についたメガネの話題を振る。
あれが彼女のものでないことは知っているが、そのことをレイが知らないので大丈夫だろう。

これが功を奏し、レイはあのメガネを持っている経緯を説明した。
あのメガネは碇ゲンドウのものであり、自分を事故の時に助けてくれたこと。
そしてそのとき変形してしまったものを、自分がもらったこと。

(やっぱり綾波は父さんのことが好きみたいだ)

その感情が恋愛によるものではなく、友愛や親愛に近いものであるということにはシンジは気づいていなかった。
レイ自身も、自分がゲンドウに抱くものと、シンジに抱きつつあるものが違うということは感覚的にわかるものの、それ自体が何なのかまでは理解していなかった。

「綾波は、父さんのことを信じているんだね」
「……碇君は、信じてないの」

言外に「あなたの父親なのに」という意味合いも含まれていた。

「前は、信じてなかったんだ、父さんのこと」
「……前は?」
「そう、前は。だってずっとほったらかしにしておいていきなり呼び出したかと思えばまた放置」
「おまけに僕より女の子のことを大事にしているんだから、信じろっていう方が難しいよ」
「……そう」

聞かない方がよかったのかもしれない、レイはそんな後悔の念に囚われた。
今までうらやましかったのだ、父親という肉親を持つシンジが。
だが、それは間違いだった。
おそらく、シンジが言う女の子とは自分のことだろう。
それがわからないほど鈍感なつもりはない。
もしかしたら恨まれているのかもしれない、嫌われても文句は言えないだろう。
シンジが受けるべき父親の愛情を、自分が横取りしていたのだから。
シンジに嫌われる、そう思っただけで、レイはどす黒い不安に押しつぶされそうになった。

「でも――」
「……でも?」

シンジが再び話し始めたことで、レイは思考の渦から引き戻された。

「でも、謝ってくれたんだ。それに、お互いすれ違っていただけだって気づいたんだ」
「だから、これからは信じたいんだ。まだ完璧に信頼できるかって言われると難しいけどね」

「つまらなかったね、こんな話」といって自嘲気味に笑うシンジを見て、レイはいたたまれない気持ちになった。
自分は勝手に、ゲンドウと親子というだけで嫉妬し、うらやましく思っていた。
それなのに退院まで毎日通ってくれたのに、自分はシンジのことを知ろうともしなかった。

(碇君はすごい。でも、私は……)

――碇君と釣り合わない――

そんなことをレイが思っていると気付かぬまま、シンジは部屋を辞した。




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