薄暮の薫風

                 Written by史燕



車から降り立ち、シンジは図書館へ。
昨日の一方的な約束は通じているのかと胸中に不安を抱きながら、館内へと足を踏み入れた。

「いた」

思わず口に出してしまうほど、その姿を見つけられてうれしかった。
図書館の端、対面テーブルの片側。
隣に座っている女性は、昨日も見かけた綾波の護衛さんだ。

「待っていてくれたんだね」
「約束、だもの」

昨日の声はきちんと届いていた。それだけでとても胸が躍る。
綾波とまた会える、それがこんなにうれしいことだなんて。
残念ながら「さあ、雑談を」という場所ではない。
「少しだけでいい、綾波と話せたら」そう思っていたシンジにとって、ここから先は思案のしどころだった。

「中庭のベンチ、気持ちよさそうね」

何の脈絡もなく、護衛の女性がつぶやいた。
視線の先にはたしかに、いくつかのペンチが並んでいた。

女性に向けて、シンジはぺこり、と頭を下げる。
ひとまず口実は口実で果たしておくために、昨日読んだのと同じSFシリーズを適当に一冊。
太陽系外からやってきた恒星が激突して地球が消滅することが予測されたので、1年以内に地球外になんとかして子供たちを送り出さなければならない。そんな状況で科学者が、政治家たちが、大人たちが世界中で奮闘する話だ。

「現実は、そうじゃなかったけど」

大人の都合で世界滅亡の危機に陥り、大人の都合で籠の鳥にされている自分の身を顧みて、フィクションの方がよほど人に優しいという事実にシンジの顔に昏い笑みが浮かぶ。
そんな自分も同罪だと自嘲しながら、ひとまず貸し出し処理をして、中庭へと向かう。
6つ並ぶ二人がけのベンチの片方に綾波レイが座っていて、護衛は3つ先のベンチに座っていた。彼女は本を持ったまま開こうとせず、空の向こうをじっと見つめていた。

「こうして話すのは久しぶりね、碇くん」

シンジが近づくのがわかったのか、視線を彼に移して彼女が言った。

「本当に、久しぶりだね」

そう言ったあとに、「隣、座るね」「ええ」と断られるはずもない了承を得て、シンジはレイの隣に座った。
一応奥の護衛へと目を向けるが、ひらひらと小さく手を振っただけで声ひとつ出そうとしない。
好きにしろ、と言うことだ。

「何か、聞きたいことがあるのではないの?」

隣に座ったシンジの方を向いて、彼女は言った。

「いいや、なにも」

聞きたいことなら、たくさんある。あの赤い世界のこと、巨大になった綾波のこと、SEELのこと、ゲンドウのこと。
だけど、シンジはそれを訊ねる気にはならなかった。

「ほんとうに?」
「うん、本当に」

これは、紛れもない本心だ。
シンジにとって、彼女がここにいる、それが、それだけが今は重要なことだから。

「どうして、そう思ったの」

逆に今度は、シンジが問いかけた。
彼女に何か不安や気になっていることがあるのであれば、おざなりにしておくべきでは無いと思ったからだ。
すると、まるで古傷をえぐられたような悲痛な表情を堪えるように噛み殺しながら、レイは言った。

「私は、人間じゃ……ない」
「そのこと……」

どう返答したものか、シンジは言葉に詰まる。
そのことはシンジにとってとうの昔に過ぎ去った問題だった。
どう言えば彼女に誤解無く伝わるか、舌先で言葉を転がす。
答えは決まっていても、彼女を傷つけずに言葉にしたい。

「――それでも、いいんだよ」

散々思案したあげく、出てきた言葉は平凡なものだった。
いや、平凡であらねばならなかった。
あの赤い世界から還ってくるときに、いやNERVで赤木リツコに説明されたときに、突きつけられた衝撃の事実。
そこから、シンジにとっては、彼女が何者であっても大切な存在であることに気がついていた。
いろいろと特殊な事情があれども、それが彼女を排斥する要因にはなり得ない。
少なくともシンジにとっては、訳のわからないエゴを押しつける人々よりも、目の前の少女の方がよほど好ましい人間だ。

「私は、たくさんひどいことも言ったのに」
「それは、お互い様じゃないか」
「私は、碇くんと会うのはこれきりにしようかと思っていた」
「それは困るな。せっかくまた会えるようになったのに」

ベンチから立ち上がり、うつむいて視線を外す彼女の目の前に回りこんで、シンジは言った。

「きみと、話がしたいんだ。これからも、ずっと一緒に」

その紅い瞳をしっかりとのぞき込みながら。

「碇くんは、嫌じゃないの?」
「嫌なもんか、僕から頼んでいるのに」
「碇くんとまた会っても、いいの?」
「いつでも、何度でも、どれだけでも、いいよ」

彼女の声は、普段のイメージとは異なり、まるで駄々っ子のようでいて。
そんな表情を見せる彼女をこそ、シンジは愛おしいと感じた。
なればこそ、シンジは間髪を入れずに、すべてを受け入れる腹積もりが決まった。
例え、誰が、何を、どういう風に言おうと、彼女だけは、僕が守る。
その決意の発露、ということではないが、目の前の彼女を、自身の腕の中へ。

「涙。私、泣いてるのね」
「好きなだけ、泣いていいよ」
「おかしいわ。私、今とてもうれしくて、うれしくて仕方がないのに」
「言ったじゃないか。うれしいときも、涙は出るんだよ」

あのときとは逆に今度はシンジがレイに向けて微笑んで見せた。

「碇くんの笑顔」

シンジの顔を見上げたレイが、言った。

「今の顔が、また見たかったの」
「そうなんだ。これから、きみと一緒なら、いつだって」

傾きつつある陽射しの中で、二つの影は決して離れず。
泣くことだって、笑うことだって、生きていれば、生きているから。
きみと一緒なら、あなたの隣なら、それは、未来へと進むための約束。

これからを歩き始めた二人の隣を、緑の薫る風が吹き去っていった。


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