香風は再逢の空へ
Written by史燕
とある一軒家の前に、その男は立っていた。
第2東京から電車で1時間足らずの郊外に建てられたその家は、最近葺き終えた瓦が黒々として新しく、庭に咲く薄紅色の桜と見事なコントラストを描いていた。
「何してるのよ、ぼうっとしちゃって」
男の隣で、妻である女性が背中を小突いた。
「あ、ああ」
気の抜けた返事をする男の手には、幾度もの大災害を経てもなお定番として生き残ってきた老舗、とらやの羊羹が提げられていた。
「数年ぶりだからって緊張してるの?」
「それはまあ、な」
お嬢ちゃんと俺の知らないところでずっと連絡を取ってたお前とは違うんだよ、と思った事を口に出した瞬間、夫婦げんかというご近所さんに一週間は困らない話題を提供する羽目になり、
この家の家主を困らせるだろう事が容易に想像できた。
「男は我慢、嫁の尻に敷かれるくらいがちょうどいい」
かつて融通を利かせすぎて後任になった際に引き継ぎマニュアル作成に苦労させられた上司の言葉が脳裏を過った。
(課長、これでいいんですよね)
「ちゃんと解散したときにシンジ君に連絡先を教えなかったあなたが悪いんでしょ?」
こう言われてしまえば、ぐうの音も出なかった。
今を去ること六年前、それぞれ碇シンジと綾波レイの護衛役(兼監視役)であった二人の任が解かれた。
理由は単純である。必要がなくなったのだ。
エヴァンゲリオンには少年少女しか搭乗できない。
そして元操縦者達が十八歳を迎えた。
ただそれだけのことだ。
「『これからは好きに生きろよ』なんてかっこつけた挙げ句、とっとと帰宅しちゃったんでしょ? 課長から聞かされて唖然としたわよ」
「お前みたいに『これからはシンジ君と一緒にたくさんお出かけできるわね』なんて言って無理矢理半休にしてウインドウショッピングしたりするような発想、なかったんだよ」
「抜けてるわよねえ。有機的に連動させた有休消化はあなたの専売特許だったのに」
「坊主を一刻も早く解放してやりたかったんだよ」
決して自分のためには使わないせいでいざとなると頭が回らなかったということくらい、同僚から伴侶へとなることを選んだ彼女には当時からわかっていた。
「そんなのだから現に今困ってるんでしょ? 03リーダーさん」
「それで言うならほんといつもいつも俺の知らないところでうまいことやるよな、01リーダーは」
からかうように言う女性と口をとがらせる男性。
しかしすぐに顔を見合わせると「へいへい、行きますよ。行きますったら」と男が降参するように手を振った。
「じゃ、インターホン押しちゃうわね」
彼女がボタンを押してすぐ、ドア越しに「はい、碇ですけど」とかわいらしい女性の声が聞こえた。
「レイちゃんお久しぶり。約束通りうちの人も連れてきたわよ」
「ありがとうございます。すぐに開けますね」
扉の向こうには、あの頃よりもすっかり大人びた蒼い髪の女性が立っていた。
男にしてみれば顔を合わせるのは本当に何年ぶりだろうか。
姓を綾波から碇に変えたことを始め、妻から何度か話を聞いていたが、当時見ていたときよりもさらに美しく成長した姿に、思わず目を奪われた。
次の瞬間、頬に感じた激しい痛みによってすぐに現実に引き戻されたが。
「人の奥さんに見とれてちゃダメでしょ」
妻の言うことは尤もである。
「いやあ、あのお嬢ちゃんがすっかり美人になっちゃって、どう声を掛けていいかわからなくって」
「リーダーさん、相変わらずお上手ですね。お二人ともお仲が宜しいようですし」
「あたしが見ていないとこの人がどうなっちゃうかわからないからね」
「ひどい言い草だなあ」
「いい、レイちゃん。旦那は遠慮無く尻に敷きなさい。シンジ君はそうでも無いかもしれないけど、大概の男はだらしないんだから」
使い古された座布団よりぺちゃんこになるまで尻に敷かれ続けている男としては、曲がりなりにも今から幸せな家庭を築こうとしている若夫婦に伝えることではないと思いつつも、
沈黙は金とばかりに口をつぐんだ。
(坊主、ごめんな)
玄関から客間に通されると、もう一人の家主が急須からお茶を注いでいるところだった。
「いらっしゃいませ」
「おお、元気そうだな」
「護衛さんも元気そうですね」
「お茶請けに羊羹を買ってきたんだ。後で二人で食べてくれ」
それっきり、男同士の会話は途切れた。
なにせ女性陣と違って正しく一別以来、実に五年ぶりの再会だ。
どこから話を始めていいか見当さえ付かない。
堪らず女性が間を持たせようと口を開きかけるが、レイがそれを制止した。
「羊羹、珍しいですね」
「そうかい。まあ、少しはいいものを選びはしたんだが」
「いえ、この四人で食べるお菓子って、いっつもホールケーキだったじゃないですか」
「そう言えばそうだったな」と男も返した。
不自由で電話一つ出来ない少年少女を無理矢理あの手この手で引き合わせるために苦心した数年間。
組織人としてはあまり褒められた物ではなかったが、誰にも迷惑のかからないいたずらのようなもので、隣の彼女や部下達とああしようこうしようと策を練ったものだった。
その最たる物が、年に二回の誕生日パーティー。
ケーキを選ぶのは決まって男の役目だった。
「悪いんだが、未だにプレゼントを選ぶのは苦手なんだ」
「僕もですよ」
また、会話が途切れた。
しかしこれは、当初の気まずさの混じったそれではなく、六年前のあの部屋でいつも流れていた空気をそのまま持ってきたような静寂だった。
「せっかくだし、みんなで頂くのはどうかしら?」
蒼い髪の彼女がそう言った。
「そうだね、二人じゃ多すぎるし」
かつての少年がそれに便乗した。
「ケーキと違ってロウソクはないけどね」
最後に男の伴侶がオチをつけた。
「だあっ、もうっ、それくらいにしてくれてもいいだろう」
六年ぶりとは思えないほど、落ち着いた空気がそこにあった。
「でも、電話も住所も教えてくれませんでしたし」
「うっ」
「綾波を通じて奥さんに聞いても、『教えるな』の一点張りだったそうですし」
「ううっ」
「ましてや護衛さん同士で結婚したのに、僕だけ知らなかったんですよ。綾波なんか『てっきりサプライズで報告の手紙を送るつもりだと思って黙ってたの』って言ってましたよ。
僕が綾波の立場でも同じ事思ったと思います」
「うううっ」
「もういいですけどね。今更ですし」
「済まなかった」
「それじゃあお詫びの印に、一つ教えて貰わないといけないことがあるんですよ」
「おう、なんでも言ってくれ」
「電話番号、教えてください。今度二人で飲みに行きましょう」
「なんだ、そんなことでいいのか」
「それじゃ、あたしとレイちゃんは女子会ね」
「いいですね」
ゆっくりと流れる、穏やかな時間。
四人の手には湯気を上げる湯飲みと、なめらかな色合いの羊羹が二切れずつ。
香風がひとひらの花びらを乗せて、蒼穹へと吸い込まれていった。
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